人は、つながりたがっている
悟りチック
あてもなくインターネットをさまよっている
アタマがパンクしそうなほど情報を詰め込んでしまった
自分なりに飲み込むために情報を咀嚼していくうちに
一つの事実に辿り着いた
それは、
みんな愛を求めているということ
愛すること
愛されること
心がつながること
人間が求める究極の状態、それはつながった状態ではないだろうか
オレの心は気が付けばそんな悟りチックな世界に突入していた
愛、日常はそれを包み隠している
こうして愛を語ること自体、なぜかどことなく嘘くさい
それはなぜか
声を大にして愛を唱える人々というのは、どこかイッちゃってるイメージがあるということ
当然それだけではなくて、表現として使い古されているということもあるだろう
照れくさいものを隠したくなるのは自然な心の動きだろう
押し付けるように愛を語る人や集団がいれば、危険な信号をキャッチしてしまうのは自然なことだろう
しかし、そういった状態の渦中の人々が、自らの発するシグナルのヤバさに気付かないまま愛を唱え続けた結果、愛を語る行為は、どこか不気味とも言えるポジションに落ち着いてしまった
作品にもよるが、今やドラマの告白シーンなどは、時としてドン引きを引き起こす場合すら存在する
視聴者をドン引きさせていることに気付かないまま続いていくドラマを見るのはもはや苦行の一つだろう
ある種のドラマを作っている人間はみんな一緒なんじゃなかろうかというくらい延々と似たような苦行を押し付けてくる
バランス感覚のいい監督さんなのか脚本家さんなのか知らないが、ドン引きをコントロールしていたり、ドン引きのギリギリ手前で方向転換したりとしている作品にであうと嬉しくなる
そして、気が付けば、愛を語る危険だけが心に残り、人々は生活から愛を遠ざけていってしまう
しかし、そんな今だからこそ、愛は新しい切り口で語り合う絶好の機会であると言えるだろう
愛
悟りチックな何かが頭のなかでささやいている
愛とは、誰もがみな心のなかに持っているもの
形が変わることはあるが、なくなることはない
ずっと心のなかに存在するのだ
だから、時には表に出してやったほうがいい
ハジをかくことになっても、しまいこんだままの愛よりは健全だ
恥ずかしいことから逃げて胸に秘め続けると、鮮度を失い、気が付けば腐らせてしまうことがある
腐ってしまうとよけいに表には出せなくなる
その危険なループのゴールは見たくもない
新鮮な空気にさらしていると、その愛は少しずつ周りの人間に触れることになる
愛の新鮮なコミュニティーは、どんな関係であれ心に暖かいものをもたらしてくれる
鮮度を保つことを疎かにする者は、関係性の継続が上手くできないだろう
関係性において愛は、"素直さ"という言葉に置き換えられる場面が多くなる気がする
時には愛を自我とも呼べるだろう
愛とはつまり自分そのものなのかもしれない
それが答えなのかもしれないし、答えなど存在しないのかも知れない
すべてを否定して、すべてを受け入れる存在
解釈と付き合い方次第という意味では、自分の中の自分という事でもあるのだろうか
誰かに答えを教えて欲しくなるが
聞いてもいないのに答えを教えようとする人にはついていかないほうがいい
寄り添って共に探すのならば、それは時に家族であり恋人であり親友になりうる存在なのだろう
共に探す人に出会えないままでは迷子になるだけだ
人は、人と関わって生きることをやめるべきではない
そして、いつもの展開へ
勘の鋭い読者の中には既に予測済みという方もいるかもしれないが、そんな事を考えたまま書き連ねていくことで、またしても着地点を見失ってしまった
勢いのまま突っ走って、気が付いたら帰り道すら分からない子供と同じ状態である
しかし、それでいいのだ
あるがままをつづる
何となくでもつづる
適当でもつづる
それがオレのブログである
よいくらしバンザイ!